メインタイトル:1925アール・デコパヴィリオン訪問

第14回  『日本館』(最終回)


図1:「アール・デコ博覧会日本館カタログ」

上の写真をクリックすると、大きいサイズの写真をご覧いただけます図1:「アール・デコ博覧会日本館カタログ」
Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Insudtriels Modernes, Paris, 1925
Guide pour le Japon Exposant

 フランス政府が日本にアール・デコ博への参加を申し入れたのは、1923年のことでした。これを促したのは、要請書を届けた当時のフランス駐日大使 ポール・クローデルで、彼は彫刻家カミーユ・クローデルの実弟にあたる人物です。第一次世界大戦終結後、日本では国産品の対外貿易が不振に陥っており、1921年にはこうした課題の対応策として日本産業協会が設立されていました。国産品の奨励と輸出促進のための見本市の開催、博覧会への出店の斡旋などが協会の主目的でした。博覧会への参加要請があった年、日本は関東大震災という未曽有の災害によって東京の都市景観が激変するほどの混乱に見舞われていましたが、政府は、本博覧会への参加を美術工芸品の輸出拡大への好機と判断し、1924年5月、正式に参加を表明したのです。


 博覧会に参加した22ヵ国のうち自国の独立館を建設したのは18カ国でしたが、日本はヨーロッパを中心とする列国の中で、独立館を建設したアジアで唯一の参加国となりました。日本は復興への負担を鑑み、自国の展示館をもたず、国産品の出品に留めたい考えでしたが、最終的にはアレクサンドルⅢ世橋の袂に、イギリス館と向かい合う、500㎡の優遇された立地にパヴィリオンが建設されることになりました。敷地は当初アメリカのために割り当てられたものでしたが、同国からの不参加表明を受けたフランス側から改めて要請を受けたのです。日本館の設計は審査により、長崎県庁舎や長崎市庁舎の設計を手掛けた山田七五郎が選出され、宮本岩吉が実施設計を行いました。


図2:日本館

上の写真をクリックすると、大きいサイズの写真をご覧いただけます図2:日本館
(『アール・デコ博公式報告書』第2巻より)

図3:日本館の庭園

上の写真をクリックすると、大きいサイズの写真をご覧いただけます図3:日本館の庭園
(『アール・デコ博公式報告書』第11巻より)

 敷地内は、住宅、特別展示室、茶室からなる3棟で構成され、建築は木造2階建て、桟瓦葺さんがわらぶ入母屋いりもや屋根で押縁下見板おしぶちしたみいた張りの数寄屋造りによるごく一般的な純和風建築でした。すべての建材は、横浜港から海路マルセイユ経由で、パリの博覧会場に運ばれました。建材の切組は国内で行われており、1925年4月上旬に竣工しましたが、工期は50日間という速さで、当時の関係者たちを驚かせたといいます。アレクサンドル大通りに面して建てられた住宅は、12畳の玄関に始まり、応接室、6畳の仲の間、8畳の主人室へと続き、2階には縁側のある10畳の客室と寝室が設けられました。そして展示品には国内各地から、名工たちによる伝統工芸品が集められました。朝香宮鳩彦殿下夫妻も、7月9日にこの日本館を訪ねています。


 博覧会への参加に対する国内の評価は、賛否両論でした。政府関係者は、東洋的な珍しさも手伝い、伝統を重んじる日本へのフランスの好評価を成功と受け止めましたが、他の有識者からは、新規性を目指した博覧会の趣旨から大きく外れたものとして不評でした。なかでも日本から国際審査員として参加した金工家の津田信夫は、技術的には優れているにもかかわらず、回顧主義的な展示品や漫然とした展示方法に批判的でした。それらは時代の潮流から完全に取り残されたものとして彼の眼には映ったのです。津田は帰国後すぐ、美術学校の学生たちに、アール・デコ博で見聞したヨーロッパの新たな造形やその傾向について説き、現代という時代を意識して制作することの必要性を強調し、彼らの発奮を促しました。その影響を受けた高村豊周他5名は、工芸界における伝統革新を目指して1926年、「无型むけい」を結成しました。1933年まで続けられた活動のなかで生みだされた作品群は、アール・デコの特徴を色濃く反映させています。



 14回にわたって連載して参りました「アール・デコ博 パヴィリオン訪問」は、本稿をもって一旦終了させていただきます。ご愛読ありがとうございました。アール・デコや本博覧会に関する情報は、今後も展覧会をはじめとして様々なかたちで発信して参ります。どうぞご期待ください。(神保)



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