メインタイトル:1925アール・デコパヴィリオン訪問

第11回  『エスプリ・ヌーヴォー館』


図1:アール・デコ博覧会会場総合図

上の写真をクリックすると、大きいサイズの写真をご覧いただけます図1:アール・デコ博覧会会場総合図
(アール・デコ博公式ガイドブック所収)
*日本語文字は筆者が追加

 本コラム「1925アール・デコ博 パヴィリオン訪問」は、一番大きなパヴィリオンであり、装飾美術家協会が総力をあげて作り上げたメイン会場である「フランス大使館」(図1の地図、上のエスプラナード・デ・ザンヴァリッドにあるコの字型の建物)からスタートしました。ここからセーヌ川までの間に、「コレクショヌール館」、「国立セーヴル製陶所パヴィリオン」そして百貨店のパヴィリオン群が並びます。主催者側が最も力を入れたパヴィリオンが、このセーヌ左岸に集まっていると言えるでしょう。(地図ではメインゲートを下に描いているため、北が下に来ています)
 そしてセーヌを渡ると、日本館やベルギー館など、外国のパヴィリオンが立ち並びます。その奥にはガラス屋根が特徴的な、飛行機の形をしたグラン・パレという大きな建物があります。1900年のパリ万博の際に建てられたものですが、アール・デコ博の際にも展示会場として使われました。(現在も展示施設として使用されています)


図2:エスプリ・ヌーヴォー館

上の写真をクリックすると、大きいサイズの写真をご覧いただけます図2:エスプリ・ヌーヴォー館
(アール・デコ博覧会公式報告書所収)

 そのグラン・パレの影にひっそりと隠れるようにして建てられたのが、後に近代建築の巨匠として知られるようになるル・コルビュジエによる「エスプリ・ヌーヴォー館」(図2)です。
 写真の右2/3を占めるのが、1922年に発表した集合住宅案の1ユニットだけを取り出して作った、正方形に近いプランの住宅で、左端に見えている曲面の壁は、超高層ビルが立ち並ぶ都市改造案「ヴォワザン計画」のための展示室になっています。前庭にはリプシッツによる彫刻が置かれました。

 住宅部分は1階にキッチン、ダイニング、書斎、2階にバス、トイレと客室、寝室があり、吹き抜けになっている広いリビングの大きな窓が印象的です。その左にあるテラスも1階2階の吹き抜けで、テラスに面した壁は赤く塗られていました。展示室はトップライトから自然光が入る作りになっていますが、残っている写真は横から撮影したものばかりのため、武骨な壁面しか見えていません。住宅と展示室の外壁には同じ規格のグリッドがついており、リビングの外壁部分(この写真には写っていません)には、この建物の名前「エスプリ・ヌーヴォー(「新しい精神」の意)」の頭文字「EN」が、2階建ての高さいっぱいに大きく描かれています。
 このプランは博覧会の委員会で物議を醸しました。それまでの建築の文法であった様々な建築意匠を否定し、建築や装飾美術の標準化・規格化を目指すものであったからです。アール・デコ博覧会は新しい時代の装飾を模索するためのものでしたが、それは時代にふさわしい装飾を作ることを意図していたのであって、決して装飾自体を否定するつもりはありませんでした。ル・コルビュジエが目指した新しい建築は、アール・デコ博覧会においては、あってはならないものだったのです。その結果、彼の建築は人目につかない片隅に追いやられ、樹木を伐ってはいけないということで、不本意ながら建物の中心に穴をあける羽目になったのだといいます。


 後世の私たちの目からは、そもそもル・コルビュジエがアール・デコ博覧会に参加していたことが不思議に思えます。アール・デコとモダニズムが相反するものであるように感じるからです。しかしアール・デコもモダニズムも、それぞれ新しいデザイン原理を追求した同時代の運動なのだと捉えることで、アール・デコへの理解が深まるのではないでしょうか。(八巻)



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