メインタイトル:1925アール・デコパヴィリオン訪問

第13回  『オーストリア館とウィーン工房』


図1:収集品の部屋

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(「オーストリア部門」『芸術と装飾』1925年9月)

 前回のソヴィエト館に引き続いて、アール・デコ博覧会に参加したフランス国外のパヴィリオンの一つ、オーストリア館をご紹介しましょう。
 1925年の博覧会において、オーストリア館のアート・ディレクターを務めたのは、建築家・家具デザイナーとしてウィーン工房を率いていたヨーゼフ・ホフマン(1870-1956)でした。彼がウィーン分離派の脱退後に立ち上げたウィーン工房は、当時大量生産・大量消費社会の到来とともにしばしば粗悪で悪趣味な製品が人々の生活に浸透しつつあったことを受け、生活の質の改善を謳い立ち上げられたものでした。主に裕福な知識人やブルジョワを対象としながら、機械に頼らず手仕事の仕上げにこだわった製品づくりを行っていました。1903年から1932年に活動したウィーン工房にとって、このアール・デコ博への参加はどのような意味を持つものだったのでしょうか。


 まず、オーストリア館は、大きく三つの特徴的な建造物から構成されていました。ホフマンの手がけた平屋部分、オスカ・ストルナードのオルガン塔、そしてペーター・ベーレンスによる総ガラス張りの植物室です。

図2:平屋部分外観

上の写真をクリックすると、大きいサイズの写真をご覧いただけます図2:平屋部分外観
(『アール・デコ博覧会公式報告書』2巻、1925年)

図3:オルガン塔

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(「オーストリア館」『パリ装飾芸術博覧会:建築と庭園』1925年)

図4:植物室

上の写真をクリックすると、大きいサイズの写真をご覧いただけます図4:植物室
(「オーストリア部門」『芸術と装飾』1925年9月)

 平屋部分の壁面には、ゆったりとしたうねるようなカーブの特徴的な装飾が施されており、一部は広くガラス窓が空いていて陳列物がみられるような作りになっていました。(図2)建物の中に入ってみると、室内は大小12の部屋によって構成されていました。各部屋は、ガラスの部屋、紙製品の部屋、金属製品の部屋、つづれ織りの部屋など、それぞれテーマが設けられていました。その中で、特に注目を集めたのは、“収集品の部屋”と呼ばれる一際豪勢な一室でした。(図1)この部屋は壁面が全てガラス張りの展示ケースになっており、その中にはジュエリー、書籍、絵画、エナメル等、多様な展示品が並べられていました。ガラス張りの天井からは光が効果的に取り入れられていました。展示ケース自体をよく眺めてみると、縁には細かい花や植物の模様が張り巡らされています。平面的に図案化されているこの植物模様にはほとんど繰り返しがなく、一つ一つ手仕事で作られた大変手の込んだものであったことが分かります。この部屋はパヴィリオンの中でも最も広く場所をとった部分であり、ホフマンもこの部屋には特に力を入れていたのではないでしょうか。
 また、音楽の都のあるオーストリアらしく、パヴィリオンにはオルガン塔がありました。(図3)オスカ・ストルナードの手がけたこのオルガン塔には、文字通りオルガンを構えた部屋が設えられていました。実際に演奏されたかどうかは定かではありませんが、高くそびえたつ塔の外側にはたくさんのオルガンパイプが並んでいるのが写真から見て取れます。上へと延びるシンプルで直線的なラインが強調されたデザインで、オーストリア館のシンボルとも呼べるべき存在だったのかもしれません。
 玄関から入って76mにも及ぶ非常に長い廊下を歩きながら各部屋を回り、最後にたどりつく部屋が植物室でした。(図4)セーヌ川に面したこの一室は、幾何学的な模様の巨大な総ガラス張りとなっていました。この鉄とガラスで作られた一室は、ル・コルビュジエが一時師事していたペーター・ベーレンスの設計によるものでした。本コラムの案内役であるアール・デコ博の公式報告書には、残念ながら部屋の内部の写真は掲載されていませんが、水槽と水生植物が置かれ、涼みの部屋としての役割を果たしたとされています。


 オーストリア館を構成していた三つの異なった建造物──手仕事の光る展示ケースが置かれた収集品の部屋がある平屋部分、シンプルかつ力強い造形のオルガン塔部分、そして鉄とガラスをふんだんに用いた幾何学的な植物室部分。これら別個に全く異なる建物を、ホフマンは一つのパヴィリオンの中に上手く集約させてみせました。オーストリア館は大変な盛況であったそうですが、その建設には非常に高額な費用が掛かったことは想像に難くありません。案の定博覧会終了後にホフマンは、高額な建設費用について美術工芸評議会から追及を受けたとされています。しかしながら、ホフマンとウィーン工房にとってこの博覧会への参加は意義あるものでした。当時財政的に厳しくあったウィーン工房でしたが、博覧会の好評を受けいくつもの会社から製品の取扱代理店の申し込みがあったとされます。(大木)



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