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メインタイトル:邸宅美術館のアートな空間

第8回 <海外編>アンパン男爵邸 (Villa Empain)

アンパン男爵邸の外観

アンパン男爵邸の外観

 世界にはたくさんのアール・デコ建築の傑作がありますが、その成り立ちや性格において、旧朝香宮邸として建てられた東京都庭園美術館に呼応するものを一つ挙げるとすれば、ブリュッセルにあるアンパン男爵邸(Villa Empain)かもしれません。旧朝香宮邸竣工の1年後、1934年にルイ・アンパン男爵の邸宅として建てられたこのアール・デコ様式の建物には、旧朝香宮邸の大客室の扉を手掛けたマックス・アングランが同じ技法(鏡面にエッチングやサンドブラスト*iでモチーフを彫る方法)を施した天井装飾があり、様々な用途を経て現在は美術館として活用されているという点で、確かによく似ています。しかしその運命は、あまりにも数奇なものでした。


 ルイ・アンパンの父エドワード・ルイ・アンパン男爵は、世界各地で銀行や鉄道、不動産事業を手掛け、パリのメトロ開通計画の中心人物としても知られる大実業家で、当時は地球上で最も裕福と言われた人物でした。このエドワード・アンパン男爵が亡くなり、21歳という若さで、兄ジャンとともに跡を継いだ直後の1930年に、ルイ・アンパンはこの私邸の建設を依頼します。依頼を受けたのは、レジデンス・パレス(1928年)などを手掛け、すでにブリュッセル建築界のキーパーソンの一人であったスイス出身の建築家ミシェル・ポラクでした。


異なる素材の組み合わせが美しい内装。

異なる素材の組み合わせが美しい内装。

エドガー・ブラントとアルフレッド・フランソワによる鉄製の扉。アール・デコらしい幾何学モチーフ。

エドガー・ブラントとアルフレッド・フランソワによる鉄製の扉。
アール・デコらしい幾何学モチーフ。

 アンパン男爵邸の建築スタイルは、ポラクが得意としたアール・デコ様式の贅沢でエレガントなスタイルと、アンパン男爵がすでに興味を持ち始めていた清冽でモダンな要素が、絶妙なバランスで融合したものでした。艶やかに磨き上げられたイタリア産の花崗岩の壁面に、金箔を貼った縁取りがシンメトリカルで直線的なラインを強調する美しいファサード。内装にも世界各地から集められた天然石や木材が惜しみなく使われました。エントランスやホールなどの扉に見られる、ガラスが貼られた鉄細工は、エドガー・ブラントとアルフレッド・フランソワの協働によるものです。繰り返し現れるこの幾何学的なモチーフは、アール・デコ様式の特徴であり、この邸宅で印象深い装飾のひとつです。また、庭園の中央に設けられたプールも、この時代の最先端の建築の特徴でした。サロンに大きく設けられた窓に臨む水面は、太陽の光を反射し、大理石やサロンのアングランによるガラスの装飾が美しく見えるように設計されています。1938年12月2日付の『Le Soir』紙の記事にも、アンパン男爵邸の照明の妙を称して、「maison de lumière(光の館)」と表現されました。


プールを臨むサロン。床に展示されているのは李禹煥の作品。

プールを臨むサロン。床に展示されているのは李禹煥の作品。
「Un rêve d'éternité. Le temps longs des arts d'Orient」展(2011年10 月~2012年2月)より

建物のシャープな直線とプールのカーブのコントラストが印象的。

建物のシャープな直線とプールのカーブのコントラストが印象的。


 このように見事な邸宅を作らせながら、主であるアンパン男爵がここに住んでいたことを伝える記録はほとんど残っていません。1年間だけ住んでいたといわれていますが、一度も足を踏み入れていないという説もあるようです。僅かに残る当時の写真には、最小限の家具や絨毯が写るのみ。その当時独身で、浮いた噂が一つもないルイ・アンパンの私生活を知る手がかりはほとんどありません。ただ、ちょうどこの頃から一族内の問題を避けるかのようにカナダへ頻繁に出かけ、新たなビジネスを始めていることと、建築やデザインの好みが、ポラクの優美でクラシカルなスタイルから、よりモダンな趣向へとシフトしていったことが関係しているのかもしれません。


 同時代の建築やデザイン、また、バウハウスの流れを汲む実験的な教育の在り方に興味を持っていたアンパン男爵は、この邸宅を同時代の装飾芸術のための国立美術館として活用することを条件に、1937年に邸宅をベルギー政府に寄贈します。ところがすぐに第二次世界大戦がはじまり、1943年に、ブリュッセルを占領していたドイツ軍に接収されてしまいます。ゲシュタポに占拠されていたという説もありますが、その真偽は定かではありません。終戦後直後は旧ソヴィエト連邦の大使館となり、1963年にようやくルイ・アンパンの手に戻りました。1973年頃まで文化的な催しや展覧会が行われますが、すぐに維持が難しくなり、企業に売却されました。以降、リュクサンブールのテレビ局RTLのオフィスなどを経て、売買が繰り返されるうちにいつの間にか持ち主がいなくなり、ついには見捨てられた状態となってしまうのです。


修復されて蘇った鏡面装飾(2010年)

修復されて蘇った鏡面装飾(2010年)
天の川と北半球の星座がモチーフ。ポラクの他の建築物に、このような装飾は見られないことから、男爵自らアングランに依頼した可能性が高い。マックス・アングランとその妻ポール・アングランによる共作。

 すっかりかつての輝きを失ってしまったアンパン男爵邸を救ったのが、アルメニアの宝石商ボゴシアン家を母体とするボゴシアン財団(The Boghossian Foundation)でした。ボゴシアン財団は2006年にアンパン男爵邸を購入し、同邸宅を芸術や文化のためのオープンな施設として活用することを発表し、この館を修復する一大プロジェクトがスタートしました。放置されていた10年間に繰り返し破壊行為を受けたことで、状態が極めて悪かったことに加えて、この時代の上流階級の邸宅を復元することが、いかに大がかりなものであったかは想像に難くありません。現代では希少な素材や技法も多くあり、修復工事はアール・デコ建築の修復を専門とする建築家や、様々な技能を持つ職人が結集して行われました。旧男爵邸としての雰囲気を極力損なわないように配慮する一方で、展示室としての使用を考慮した大胆な改変も行われましたが、「男爵邸本来のエスプリを理解するために、建物の持つ歴史と対話し、さらに現在や未来へとつなげる」ように、リサーチと改修工事が行われたといいます。こうして再び光を取り戻したアンパン男爵邸は、2010年にボゴシアン財団の美術館としてその美しい扉を再び開きました。以後、「アートを通して東洋と西洋の対話を深める」ことをミッションに掲げ、主に現代アートを中心とする展覧会が開催されています。 歴史に翻弄され続けたアンパン男爵邸が、この先末永く人々に愛され、守られていくことを願わずにはいられません。


左右ともに企画展「Un rêve d'éternité. Le temps longs des arts d'Orient」(2011年10月~2012年2月)の展示風景。

左右ともに企画展「Un rêve d'éternité. Le temps longs des arts d'Orient」(2011年10月~2012年2月)の展示風景。
画像右の部屋は当館「大食堂」にそっくり。


(執筆:田中雅子)


  • The Boghossian Foundation
  • The Villa Empain
  • Avenue Franklin Roosevelt 67
  • 1050 Brussels
  • www.villaempain.com

*i ガラスの表面に砂などの研磨剤を吹きかけて表面をすりガラス状にして文様を入れる技法


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