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メインタイトル:邸宅美術館のアートな空間

第6回 <海外編>デスピオ-ヴレリック美術館

彫刻美術館に生まれ変わった中世の城


建物外観:塔の胸壁に中世のおもかげが。

建物外観:塔の胸壁に中世のおもかげが。

館内は階段しかなく、大きな彫刻も人力で運んでいる。

館内は階段しかなく、大きな彫刻も人力で運んでいる。

展示室内

展示室内

美術館の中庭(デスピオ-ヴレリック美術館公式ウェブサイトより)

美術館の中庭(デスピオ-ヴレリック美術館公式ウェブサイトより)

 今回はフランス南西部モン・ド・マルサン市(アキテーヌ地方ランド県)にあるデスピオ-ヴレリック美術館をご紹介します。シャルル・デスピオ(1874-1946)とロベール・ヴレリック(1882-1944)、二人の地元彫刻家が名前を分かち合うこの美術館は、この地が中世より軍事的な要所だった事を偲ばせるロマネスク建築の一角、ラカタイ塔の中にあります。元の建築を活かすために受付と展示室は別棟になっており、かつて礼拝堂であった受付のある建物から一旦外に出て彫刻庭園を横切り、左奥の建物の扉を開けると、照明を落とした展示室に並ぶ大小様々な彫刻に圧倒されます。ここはフランスでも珍しい具象彫刻専門の美術館なのです。


 意外なことにフランスでは、彫刻に特化した美術館は数えるほどしかありません。ブシャール*i、ブールデル、ロダン、ザッキン、いずれも個人作家の美術館でパリに集中しています。ではなぜ人口3万人の小さな街にこのような特色ある美術館が生まれたのでしょうか。

 その発端は1886年に地元の若い薬剤師ピエール・ウドックス・デュバレンがジャンルを超えて収集したコレクションを寄贈した事に始まります。この時市民の強い要望によってモン・ド・マルサン初の博物館が市庁舎の中に誕生し、その後、時を経て博物館のコレクションに含まれていた美術部門のコレクションを独立させることが決まりました。1955年頃から塔に作品を移すための改修工事が始まり、少しずつ美術館のスペースが買い増しされ、1977年には受付がある礼拝堂、4階建ての建物(現デュバレン博物館)、常設展示以外に用いられるギャラリーが彫刻庭園を囲む現在の姿になりました。全ての工事が完了し美術館が正式に開館したのは1968年7月のことでした。


 美術館のコレクションの中核をなす二人の作品も、遺族からの寄贈と1956年に結成されたシャルル・デスピオ-ロベール・ヴレリック友の会の精力的な活動によって着々と集められました。こうして現在ではデスピオとヴレリック作品のほか、20世紀前半のモダニズムとクラシシズムの流れを汲む全部で2200点の彫刻作品や、ドローイング、彫刻に関する貴重なアーカイブを所蔵するに至り、この分野では国内随一とも言える彫刻専門の美術館が誕生しました。


二人の彫刻家


デスピオの胸像の後ろに「シャルル・デスピオ展」(三重県立美術館、1997年)のポスターを発見!

デスピオの胸像の後ろに「シャルル・デスピオ展」(三重県立美術館、1997年)のポスターを発見!
この交換展としてデスピオ-ヴレリック美術館では「日本の具象彫刻家10人展 1935-1955」(1997年)が開催された。

 そもそもシャルル・デスピオ、ロベール・ヴレリックという名前に馴染みのない方も多いかもしれません。実は母国フランスでもつい最近までほとんど知られていませんでした。デスピオはロダンの有能な弟子の一人だったにも関わらず、先輩のブールデル、同時期に活躍したマイヨールほどの知名度はありません。デスピオは行き過ぎた前衛や過激さから距離をおき、むしろギリシャ彫刻やエルトリア芸術にインスピレーションを得た古典主義的静謐さや調和の中での普遍性を追求したために、その「現代性」が理解されるのに少し時間が必要でした。


 そのデスピオより8歳年下のヴレリックもまた独自の道を歩みます。モン・ド・マルサンに生まれ、その後パリで彫刻の修行をしたこと、古典への傾倒が見られる点では共通していますが、デスピオに比べるとより情熱的で官能的なスタイルを好みました。両者とも「シュネグ党」の一員として、独立芸術派の彫刻家たち*iiと共に、アカデミズムやロダン、すでに賞賛を得ていたブールデルやキュビズムとは別の道を模索したのです。

シャルル・デスピオ「アポロン(Apollon)」1936年、ブロンズ

シャルル・デスピオ「アポロン(Apollon)」1936年、ブロンズ
1937年のパリ万国博覧会の際に委員長自ら依頼し、巨大な記念碑的作品としてパレ・ド・トーキョー前の広場に設置されるはずだった。デスピオにとって晩年をかけて取り組んだ思い入れのある作品だったが、未完のまま亡くなってしまう。

ロベール・ヴレリック「魚を持った子供(L`Enfant au poisson)」1938-1941年、石膏

ロベール・ヴレリック「魚を持った子供(L`Enfant au poisson)」1938-1941年、石膏


 こうしたムーブメントが世に知られるようになったのは1937年のパリ万国博覧会でした。「現代生活における芸術と技術」というテーマの下、500人もの彫刻家が参加しフランス彫刻の新しい展望を示したこの博覧会は、後のモン・ド・マルサンの新しい美術館の在り方にも大きな影響を与えることになります。つまり、デスピオとヴレリックに対する認識を高めることに加えて、20世紀初頭のフランス具象彫刻のコレクションを充実させること、さらに1937年に一度発見され、その直後の大戦の混乱の中で忘れ去られてしまった芸術家たちの業績を再評価する、という基本方針が定められたのです。


「彫刻の街」に受け継がれるミッション


 開館から45年を経たデスピオ-ヴレリック美術館は今も独自の活動を続けています。もともと市民の熱い要望からできた美術館だけあって、美術館に限らず街全体を「彫刻の街」と表現する方が適当かもしれません。約1000点もの彫刻作品が市内各所に点在し、街の風景の一部となっているため、彫刻が市民の生活に根付いていることが伺えます。さらに現代的な試みとしては定期的に行われる若手彫刻家たちの企画展、また1988年から3年に一度開催している「モン・ド・マルサン 彫刻 (Mont de Marsan Sculptures)」があり、市内の広場や路上でテーマに沿った現代彫刻が展示されるそうです。1997年には「Le Japon Créations in-situ 1997」と題して、日本の近現代彫刻が紹介されました*iii。今でこそ決して珍しい事ではありませんが、当時フランスの小さな地方都市で日本の近現代彫刻が紹介されることはとても意味のあることでした。モン・ド・マルサン市民の彫刻に対する深い理解なしには決して実現しなかったことでしょう。


 美術館では美術史のいわば“スター”作家たちが注目されることが多いですが、このデスピオ-ヴレリック美術館の活動のように、時に歴史からこぼれ落ちてしまう重要な作家の作品を大切に保存し、新しい価値を見出し現代につなげるのも美術館の大切な役割だということに改めて気づかされます。

(執筆:田中雅子)


  1. 2007年に閉館。所蔵品はラ・ピシーヌ、アンドレ・ディリジャン美術・工芸館(ルーベ) に移転。(2014年公開予定)
  2. メンバーはボードレール・ルシアン・シュネグ、ガストン・シュネグ、デスピオ、ポンポン、ドゥジャン、ドリビエ、アルー、ププレ、アルノー、マルク、セイルス、カバイヨン等
  3. 海老塚耕一、ふじい忠一、國安孝昌、戸谷成雄、土屋公雄、平川滋子、遠藤利克が紹介された。


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